以下は嘘のような薄っぺらな本当の話。何事も真実がフィクションより嘘のようなバンコクで、筆者が遭遇した夜の出来事。
Patpong2(註1)のお馴染みのPavilion Hotel(何?知らない?ほんと?(註2))の右隣に、「In Traffic」というBarがあり、筆者は、飲んだ帰りにここに寄り道することが多い。
どうということのない普通のショットバーであるから、踊り子はおらず、普段はファラン(註3)がダーツを投げていたりするが、時間帯によっては閑古鳥がないていて、ホステスが5〜6人暇そうにしている。
筆者の古い知り合いの妹であるトイがここでホステスをやっており、あるときPatpong2を歩いているときに見つかって引きずりこまれたのが時々立ち寄るようになったきっかけである。
![]()
ある夜零時をまわろうかという頃、筆者はこのバーの壁際のソファで飲んでいた。
テレビにはイーグルスのコンサート・ビデオが流れており、甘ったるいセンチメンタルなメロディーが飲み疲れた心に染み込んで来ていた。仕事に疲れた男の哀愁という錯覚が生成される。本当は単に仕事を適当にごまかしてははしご酒で酔っ払っているだけの自分を、いつの間にか過酷な日常に苛(さいな)まれる疲れきった悲壮なビジネスマンに変えてしまう。
トイは何もいわずに水割りのグラスを口に運んでいる。
日本を背負い、前線でぼろぼろになって戦っている俺。(よく言うよ!)
ネクタイを緩め、しわくちゃになったワイシャツの袖をまくりあげる。
ああ「私をスキーに連れて行って」の華麗な日々はどこに行った。(実は筆者そんなに若くはない) 閉じたまぶたの裏には、新富良野プリンスのダイニングのガラスごしの雪景色、しんしんと針葉樹に降り積もりゆく雪が灯に照らされる情景が映る。ここは「戦場のメリー・クリスマス」。
テーブルのグラスを両手で抱え思わずつぶやいた。「メリークリスマス、ミスター・ローレンス。」
「南の島に雪がふる」。バーチャルな夢。酒は夢。女は夢。夢を売れるこの店はいい店だ。
![]()
筆者の正面で背中を向けカウンターで飲んでいた男がいた。何やらカウンターの中の女と話している。その男が後ろを振り向いて、見上げるように筆者の顔を見つめそして話しかけてきた。
「あなた日本人?」
あまり上手でない日本語だ。それにだいぶ酔っているようで呂律がまわっていない。
いったいどこの国の男だろう。色の黒い眉毛の太い大きめの彫りの深い顔。二重まぶたの大きな丸い目。ボタンダウンのシャツに細いネクタイをゆるめている。インド人にしては東洋人ぽいところもある。バングラデシュか、マレーシアか。
彼はグラスを持って筆者とトイが座っている席に来た。
「私の奥さん日本人ですよ。子供も二人いるんですよ。」
「日本で仕事してましたけど、今は一人でバンコクに来て働いてるんですよ。疲れたよ。本当にここ疲れるところだよ。あなた疲れない?」
「疲れますね。」
筆者の顔に質問が浮かんでいたのであろう。
「私シンガポール人ですよ。シンガポールに奥さんと子供が待っているんですよ。だけど私シンガポールは仕事してて好きになれない。わかるでしょ。」
シンガポールを好きになれない理由にはバリエーションは少ない。みんなほとんど同じだ。
「わかりますよ。」
「奥さんがなかなかわかってくれないよ。一緒にバンコクに来てくれなかった。でもここは、もう疲れたよ、本当に。」
何がそんなに疲れるのか筆者はさらに深くは尋ねなかった。バーチャルな夢であれば、それは夢として演技を盛り上げるのが礼儀というもののような気がした。
![]()
しばしの沈黙と氷がグラスにあたる音。ホテル・カリフォルニア。
「あなた何年ここにいます?」再び彼が口を開いた。
「4年。」
「私2年たったところよ。もうどこか行こうと思ってる。給料も安いよ。」
「そんな疲れる年でもないでしょう。」
「もう40よ。55年生まれ。あなたは何年生まれ?」
「56年。」
「ああ。同じねえ。」
彼は「おなじね」の「な」にアクセントをつけて、急にうれしそうな顔で大きな声を出した。そしてカウンターのほうに手を振ると、筆者とトイに酒を奢る仕草をした。水割りが3杯運ばれてきた。
「お近づきのしるしね。」
「これはどうも。」
グラスを持ち上げて挨拶をして、それから握手した。大きな暖かい厚い手だった。
![]()
トイに聞くと彼は常連だという。
「どういう人?」
「奥さんが日本人なの。」
トイはこの界隈の女性のとしては英語が上手だ。コロコロした高い声で話す。
「どうして知ってるの?奥さんに会ったことあるの?」
「この人がそう言っているの。」
「ああ、なんだ、そう。」
店の壁には一面にはクリスマスやハロウィーンの時の店内のスナップ写真が貼ってあるのだが、その中の何枚かに楽しそうな彼の顔が写っているのに気がついた。女の子やほかの客と顔を寄せあい、広角レンズで誇張された顔。
![]()
手洗に行って戻ると、いつのまにか彼はテーブルに突っ伏して、「ほんとに疲れるよ。」とぼそぼそつぶやいていた。
「だいぶ酔ったみたいですね〜。」
突っ伏したまま彼は答えた。
「うん。もう帰るよ。」
おぼつかない足取りで彼はカウンターに戻り、金を払った。
二言三言またカウンターの女と言葉を交わし、筆者の方を向いて手を振り、ガラスのはまった木の扉を開けた。扉が開くと通りに流れる音楽が店のなかに入り込んできてここが確かにPatpongであることを改めて思い出させる。その喧騒のなかに大きな背中を丸めて彼は出ていった。
「いったい彼は何奴かな。」
筆者の頭は回転を始めていた。しかし、あえて何も尋ねなかった以上、何を考えてもすべては推測にすぎない。考えたせいで酔いが覚めてきてしまった。
「くだらないな。俺はいったい何やっているんだろう。」
つぶやく。頭の芯が熱い。ワイシャツの二の腕で口と頬をぬぐう。
南洋ゴロにでもなったような気持ち。
「う〜ん。」と伸びをする。
はっとした様に見つめるトイ。
「かっこだけの退廃だよなこれは。赤提灯でからんでるおっさんとかわらないな。結局薄っぺらだよな、バンコクの夜も。”熱帯の濃密な空気”なんていったいどこにあるんだろう。」
筆者はそんなことを考えながら、両手でグラスを持ち上げ見つめた。
氷の向こうで歪んだトイの顔がにこにこ笑っていた。
-了-
![]()
(註1) Patpong2:Patpong2通りのこと(バンコクのガイドブックを見よ)
(註2) Pavilion Hotel:Patpong2通りにあるホテルである。古式マッサージもあり。部屋を時間貸ししてくれるところ。
(註3) ファラン:タイ人が白人を総称して言う言葉。
その夜、舞台は再び"In Traffic"である。正体不明のシンガポール人に会ったその次の週のことである。筆者は再び同じ壁際のソファーでウィスキーを飲んでいた。
時間は9時を少し回ったところ。その日は友人と別の店で10時に待ち合わせをしており、時間を潰すために飲んでいたのである。
店には他に客はいない。かかっているミュージック・ビデオは聞いたことはあるが、筆者が曲名も歌手の名前も知らない、ただその国のものであることだけはわかるアメリカの歌だった。トイが隣に座ったが、あまり話さず、退屈な時間が流れていた。
![]()
扉があいて何か絵柄のはいった白いTシャツを着た細身の若い日本人が入ってきた。そのまま扉の横のPatpong2の脇の路地に面した壁のガラス窓の下のソファに座った。短く刈った頭と妙に背筋ののびたきちんとした座り方が見た感じの年齢...20台後半..とあわず、オウム教信者とでもいうような、ちょっと普通でないような雰囲気を漂わせている。まだ早い時間帯、ゴーゴーバーへ繰り出すウォームアップに来たのであろうか。
トイが、「めずらしく日本人が来た」というように筆者の脇腹をつついた。
彼は手に持っていたデイパックをソファーに置き、寄ってきた女に何か注文した。しばらくして届けられたその飲み物はナム・ソム(註1)であった。
トイがまた脇腹をつついた。
若者はオレンジジュースのグラスを口に運び再びテーブルに置いた。そして正面の壁に据え付けられたテレビ画面をまっすぐ見つめた。彼の両脇にホステスが座った。彼は両手を自分のふとももに置きながら、腰をちょっと浮かせ、そしておろし、居住まいを正した。
![]()
再び扉が開いた。アタッシュケースを持った小柄な若い白人が入ってきた。白いワイシャツがまぶしい。品の良いスーツからしていたネクタイをはずしたような格好だ。大きめのカラーのボタンをはずしている。もう片方の手にはなにやら紙袋を抱えている。彼は筆者の座っている長いソファーのもっと入口よりのところに腰をおろした。馴染みらしく、ホステスがすぐ席についた。
その白人の座ったところは、筆者が日本の若者を観察する視線を10度ぐらい左にずらしたところであり、日本人を見るふりをして、その白人を観察することができた。
若い。小柄なハンサムでなんとなくマイケル・J・フォックスを思わせる風貌である。そうだ、両手に荷物をかかえて扉を肩で押しながら、ちょっとあわてた様に入ってきた仕草がマイケルにそっくりだった。きれいな肌をしていて、そんなにバタ臭くないし、これなら結構日本人の女の子にもてそうである。どこか日本人に親しみのある顔立ちである。彼は隣に座った女と話をしながら、注文した酒を飲み始めた。女のほうがずっと年上に見える。
![]()
「あの人はコン・イープン(註2)よ。」
トイが言った。なるほどハーフか、道理でなんとなく醤油顔なわけだ。
「おかあさんが日本人でおとうさんがアメリカ人だって。」
「良く来るの?」
「良く来るわ。子供よ。」
その彼が顔を筆者の方に向け口を開いた。
「日本人ですか?」
この間のシンガポール人よりずっと上手な日本語だ。というより完璧な日本語だった。
「そうです。」
「何年いるんですか?」
「四年です。」
「私も日本人なんです。父がアメリカ人で、母が日本人なんです。日本人だけ三人もいるなんてこの店ではめずらしいですね。」
彼は窓際のTシャツの青年の方を指差して言った。
彼はダニエルだと名乗り、右手を差し出した。東京のインターナショナルスクールからソフィアを出て、そこでの友達にさそわれてバンコクに働きに来たという。来て10ヶ月たったところ。今23歳。若い。
トイが、
「化粧品の会社よ。ハナ..コとかいうの..ある?」
と口をはさんだ。
トイとダニエルと筆者の三人は、英語を交えながらしばらくとりとめのない会話を続けた。
![]()
壁際のTシャツの若者は、相変わらずオレンジジュースを時折口に運びながら、まっすぐテレビを見ている。
「四年もいておかしくならないですか?」
「おかしくなりますよ。」
「ここ狂ってません?」
「狂ってるともいえるね。」
「まともに仕事できないでしょう。」
この若さでこいつは日本でまともに仕事をしたことなんかあるのだろうか、と思いながら筆者は彼の、不思議と好感の持てるその顔をまじまじと見つめた。苦労のかけらも見当たらない、きれいなつるつるした色白の顔が本当にアイドルスターのようだ。
![]()
「ここ異常ですよ。こんな所にいたらおかしくなっちゃう。」
いったいバンコクの何をさして異常と言っているのか、例によって筆者は尋ねなかった。「あせるな、あてにするな、あきらめるな」という言葉であらわされるタイでの仕事のペースの事を言っているのであろう。ずいぶん一端の口をきく奴だ。
「ここの仕事はやめて、来週アメリカに行くんです。」
「アメリカのどこ?」
「ヒューストン、テキサスです。父がそこにいるんです。アメリカで働くつもりです。」
こんなにすぐギブアップするような奴が次の仕事でうまく行くんだろうか? 筆者はそう思いながらしかし、いずれにせよ日本に戻ってもこういう経歴の人間にいい仕事の口はありそうもないし、アメリカならすべてオウン・リスクだから、結局彼がこれから学んでいく人生の舞台としてはアメリカの方が、世の中へのうらみつらみという後ろ向きのストレスがなくていいかもしれないな、とも思った。
「子供なの。」
トイが言った。ダニエルはタイ語を解さないのだ。
「そうだね。」
筆者もタイ語で答えた。
「この子、この店で一番かわいいですよね。」
トイを指してダニエルは言った。言い方がいかにも日本の若者らしく、妙に懐かしく筆者は何故か恥ずかしくなった。
「そう....ねえ。この人は昔から知ってる友達の妹なんです。」
しなくてもいい言い訳をしながら、筆者は頭の中でトイを他の店の娘達と比べていた。
ダニエルはトイの事が気に入っているのかな。英語がまともに通じるしな。
「君が一番かわいいって。」
と言うと、トイはなまいきな子供にほめられたような嬉しそうとはいえない顔をした。
![]()
筆者は腕時計を見た。9時50分。
「そろそろいかなくちゃ。」
尻のポケットから財布をだして、トイに百五十バーツ渡した。
テーブルの上の携帯電話を左手につかみ、上着を右手に抱え、そのまま立ち上がり、出口の方へ向かう。
トイも立ち上がってついて来た。
出口の手前、ダニエルの正面で立ち止まり、上着をかけた右手を伸ばして、彼に握手を求めた。
「もう会うことはないと思うけど、もしバンコクに来たらまたここに寄ってみてよ。アメリカでは頑張って。」
「ありがとう。もうタイには来ないと思いますけど。」
![]()
内開きの扉をトイが体で支えていた。ネオンと喧騒の世界。
「今度いつ来る?」
「さあ、来週かな。」
トイは閉じた唇で微笑みをつくった。
「子供でしょ。」
「そうだね。」
トイはきれいな声で、彼女らしい、あがってからちょっと下がる発音でさよならを言った。
「バイバ〜イ」
もう歩き出していた筆者は背中にその声を聞いた。狭い路地を歩く。路地端にならんで売られている大きなぬいぐるみ(註3)の山。ひときわ大きなハローキティが目につく、純真無垢のあどけないしかし表情のない顔に筆者は立ち止まって声をかけた。
「アメリカでは頑張ってね。」
-了-
![]()
(註1)ナム・ソム:オレンジ・ジュースのこと(ナム正確にはナームは水、ソムはオレンジ)
(註2) コン・イープン:日本人のこと(コンは人、イープンは日本)
(註3) 大きなぬいぐるみ:もちろん紛(まが)い物である。キャラクター物もどこかデッサンが狂っているところが寂しくてそれらしい。